なぜ法律が嫌いか(浦松 佐美太郎:評論家)

第18号(昭和26年4月3日号)

人によって、法律との距離や感じ方は実にそれぞれであるとは思いますが、なんとなく共感することの多いコラムでした。

なぜ法律が嫌いか、と問われて、私ならば条文が難しく長いし普段の生活に関連を見つけるのが難しいから、とまず思います。

世にあるすべての法律を知るなんて途方もない話、弁護士の方々はそれをひとつひとつ覚えて、改正に目を配って判例にも当たらなければならないなんて、と気も遠くなるように思うのです。しかも、法律のフィールドでの仕事を持っていない限り、法律を知って何になるかといえば、何にもならないかもしれない。日常の生活で、法律について話題にすることなど滅多にしない、もしくはしてはいけないという雰囲気すら感じます。これは政治についても同じことが言えるのではないでしょうか。ゴシップとしてならば、頻繁にバラエティー番組で取り上げられるようにはなっていますが、あくまで非日常としての話題の取り方に見えます。閑話休題。

浦松氏のコラムは、とても分かりやすく法律とは何かを伝えているように思います。

氏は、大学を出てイギリスに行った経験、そして日本に帰ってきてからの経験を具体的に話しています。

まず、友人宅を訪れるためにイギリスでタクシーに乗り、観光客向けのような規定外な値段を請求されたが規定通りの金額だけ払って友人宅にはいります。しかし、タクシー運転手は玄関口で文句を言う、そこで家の主人が「自分の土地だから外に出ろ」と言うと運転手は大人しく門の外に出てしまう、という経験談。そして、退職して別の場所で働く予定の女中を引き止めたことで代償の金を支払うように弁護士からいわれ、その金額を慈善団体に寄附した話。

その経験から、氏はイギリスの法律に興味をもち、法律や歴史を研究し、理解するようになります。(確かに、法律について考えたくなるエピソードです。)

しかし、日本に帰ったら日本の法律もわかるようになると期待していたら、依然訳が分からない。

押し売りは玄関から離れないし、平然と扉の中に入ってこようともする。所有権というものが効力を発揮していない。

そこで、氏はこう書いています。「どうも日本の法律は、自分たちの生活の中にないことが、その大部分を占めているらしい。…法治国家とは、うまいことを言ったものである。法律によって治められる国。これが文字通りに解釈した法治国家という意味だろう。法律は国を治める者の道具ということになる。治める者が、権威とし基準として使う道具が法律だということになる。…だからぼくは、法律の学問が嫌いだったのだ。」

 

 

「憲法が改つたので、国民が治める者の地位に立つことになった。だから理窟から言えば、法律は、国民の道具になったわけである。確かにそうなったのだろうか。」

 

 

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確かに、押し売りで閉じようとしたドアに足を挟んでしゃべり続けるだとか、チェーンを挟んでいないと上がり込んでしまうとか、今でも容易に想像できる、まったく変わっていない日本人の姿に少し呆れてしまいます。それが国民的特性だと言われたら、そうかもしれない、と頷いてしまいそうです。

 

それは民主主義と日本との問題だ、という氏は今の日本を見てなんと言うのだろう、と思いを馳せてしまいます。

今、自分の手の中に法律という手段が使われるのを待っているか。暇つぶしや手慰みばかりに気を取られていないで、もう少し省みるべきものもあるかもしれません。