砂川一審判決、伊達秋雄東京地裁判事の「法窓リレー:私の足跡」

「私はこれまでに随筆というものを書いたことがありません」。

そんな言葉から始まる伊達判事の随筆は、伊達判事の“人生観”が伝わる内容となっています(昭和33年(1958年)6月23日号〔第283号〕42~45ページ)。

 

 

明治42年(1909年)生まれの彼は、昭和8年(1933年)に24歳で判事となり、昭和31年(1956年)に47歳で東京地裁判事に就任します。

この随筆は、学生時代から戦争を経て東京地裁判事となって2年後のもので、この間の心の変遷を率直に語っています。

 

「正直申しますと、学生時代、裁判がこの世の中で一番大切なことだとは考えていませんでした」

彼が京都大学で学生生活を送った当時、満州事変の始まる前で、世の中は不況のどん底にあり、民衆の生活は暗く苦しく、学生は就職難にあえいでいた、といいます。

 

「卒業生の一、二割しか職を見出すことができなかったと思います。純真な若者たちからみた社会は不条理に充ちているとしか思えませんでした。青春の情熱を打込んでなすべき第一の仕事は、もっと暮らしやすい、人間らしい生活のできる社会を建設することであると思いこんでいたわけです。犯罪人を処罰する裁判官よりも、犯罪の発生する余地のない天国を地上に築くことが肝心だと考えていたのでした。」

 

しかし現実にはどんな職業に就けば正しい社会建設の理念を追求できるかという構想も思い浮かばず、弁護士にでもなって前進しようと考えた彼は、余り法律には興味をもっていず、勉強もしていなかった、と告白しています。既に退官していた西田幾太郎氏の科外講座を聴いたり、哲学科や経済学部の講義を聞いたりする方が好きで、経済学と社会科学は自分の視野を広げてくれたと記しています。

 

そうこうしつつも、民法の近藤英吉教授の親身の指導もあって、好成績で高文試験(高等文官試験:高級官僚の採用試験)に合格し、結局彼は司法官試補となり司法部に入ります。このときの気持ちを、

「まことに住み心地のよいところで、ことに裁判官は、若い者でも先輩と同格で、仕事に関しては誰からも掣肘を受けずに行動できるので非常な魅力を感ずるようになりました。」と記しています。

 

判事になった彼は、裁判官の職に多少の不満がないわけではなかった、といいます。

 

その理由として、裁判にとって“事実認定”が最も重要にもかかわらず、取り扱う“事実”が三面記事に出てくるようなことで、「裁判によって正義を実現する」と息巻いても限界があり、「社会悪を匡し苦しむ人々を救うことは百年河清をまつに等しい」と感じられたことを挙げ、司法の政治に対するコンプレックスが、後年まで長く胸底に潜んで自らを悩まし続けたと告白しています。

 

また、哲学や経済学に傾倒していた青年判事は、俗っぽい事件なら何も大学まで出なくても結構できるのではないか、などと青年らしいことも思っていたようです。

 

そして。戦争が彼を変えていきます。

 

「戦争が苛烈となるに従って、国家とか全体のみがあって、個人は存在しないというような政治が行われる。この思想が裁判の世界に浸透してきたら大変なことになる。私は政治の中心である東京に出て刑事裁判において、人間の尊厳のために戦いたい。」

こうした気持ちとは裏腹に、「戦争に勝ち抜くために」という至上命令のために、「ずるずるっと、この悪魔のような支配的思想の渦潮に巻き込まれ勝ちであったことは否定することはできません。これは、今日から考えてまことに慚愧にたえないところであります」。

 

そして、戦後。

「何よりもうれしかったことは、…新憲法の精神に従ってのびのびと裁判することができることとなったことでした。…新憲法に強調せられた人権の保障ということが、今やわれわれ裁判官の最大の任務とされたことです。何と素晴らしいことではないでしょうか。私は司法に職を奉じたことをこんなにうれしく思ったことはありませんでした。」

 

「その上私どもには法令の違憲審査権が認められることになりました。今までいかんともし難かった悪法は、これからは、憲法の精神に照らして、違憲のレッテルをはることによって、その無効を宣言しその適用を拒否することができることになりました。」

 

「このようにして、新憲法の下において、裁判官の役割は一新したといっても過言ではありません。しかし、私どもは、ただ手放しに楽観のみしてはいられないような気がいたします。私どもは、本当に憲法意識に徹し、いかなる圧力に抗してもこれを守り抜くだけの覚悟と勇気と実力をもっているでしょうか。絶対に誤判に陥ることなく人権擁護の使命を完うするだけの洞察力を身につけているでしょうか。深く反省して勉強しなければならない面があるように思われます。」

 

「耳を澄ませば、歴史の歩みの足音は、意外に高く、しかも速く、憲法の掲げる理想に背を向けて進みつつあるのではないかと危惧を感じさせるものがないとはいえないようです。」

 

「裁判官の受難の日が訪れなければ幸です。過去の過ちを再び繰り返すな、時代の波に巻き込まれて己を失うな。私の体験から得たこの言葉を私は胸に深く刻み込んでおこうと思うのであります。」

 

掲載号は、昭和33年(1958年)6月23日号〔第283号〕。東京地裁の砂川判決が出されたのが翌34年3月30日のことでした。判決は、人としての、そして裁判官としての、伊達判事の人生を反映していることを感じます。

 

そういう意味で、裁判とは本来、創造的なものなのかもしれない、という実感を持ちました。(C.S)